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【週刊ハンガンネット通信】第547号 (2025年9月1日発行)
「9月1日の朝に」田附和久
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朝鮮語を学び始めた当初、語順や漢字語の語彙など、日本語と朝鮮語の間にあまりに多くの共通点があることに日々驚かされましたが、一方で、発音には相違点が多いことを不思議に思いました。とりわけ印象的だったのは、日本語では「蚊(か)」と「蛾(が)」が別の語であるのに、朝鮮語母語話者にはその音の違いが聞き取れず、逆に朝鮮語では「비(雨)」と「피(血)」が別の語であるのに、日本語母語話者にはその音の違いが聞き取れず、同じ「ピ」の音に聞こえてしまう点でした。
日本語母語話者は区別できるのに朝鮮語母語話者には区別できない対立があり、またその逆もあるという事実を通して、私は、それぞれの言語には固有の音の体系があり、そこには優劣はないこと、さらに言えば、それぞれの言語を用いる集団同士にも上下はないということを学びました。
その経験があるがゆえに、私自身が教師として朝鮮語を教える際、子音を学ぶ単元では、両言語の母語話者が聞き分けられる音の違いを丁寧に説明しながら、その違いは優劣ではなく、両言語の話者の間にも優劣や上下関係は存在しないのだということを強調し、学習者と共有するようにしています。
そして、朝鮮語母語話者は無声音と有声音(日本語の清音と濁音)の区別が難しいということを説明する際に、もう一つ必ず触れるのが、関東大震災後の混乱の中で朝鮮人が暴動を起こしたというデマを信じた民衆が、朝鮮人であるかどうかを調べるために「十五円五十銭」と言わせたという歴史上の出来事についてです。「十五円五十銭」というのは、日本語の清音と濁音の区別、とりわけ語頭を濁音で発音することが難しいという朝鮮語母語話者の特性に基づく「識別法」にほかなりませんでした。
関東大震災が発生した1923年当時、日本人と朝鮮人は対等な関係にはありませんでした。支配する者と支配される者という不平等な関係の下で、罪のない多くの朝鮮人が日本人によって命を奪われましたが、その際、命を奪うかどうかを識別する材料として言語の個性の違いが用いられたのです。
朝鮮人虐殺の惨劇から102年を経た今年の夏、ある政党の街頭演説会場で、聴衆の一人が近くの人に、「『十五円五十銭』って言ってみな」と発言した様子を映した動画が拡散しました。「十五円五十銭」という悪魔の言葉が再び息を吹き返したことに戦慄を禁じえません。
母語ではない言語(外国語)を学ぶ目的は人それぞれです。しかし、できることならば、それは人の命を奪ったり、傷つけたりするためではなく、人の命を輝かせ、人の心に平和の砦を築くためであってほしいというのが、言語教育に携わる者としての私の切なる願いです。
関東大震災から102年を迎える9月1日の朝、私はその思いを深く心に刻みなおします。
