通信555「ノーベル文学賞と翻訳権」ペ・ジョンリョル

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【週刊ハンガンネット通信】第555号 (2025年10月29日発行)
「ノーベル文学賞と翻訳権」ペ・ジョンリョル
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毎年10月に発表されるノーベル文学賞。昨年韓国の作家ハン・ガン氏が受賞したことがまだ記憶に新しいですが、今年度はハンガリー出身のクラスナホルカイ氏が受賞しました。あれからもう1年たったのですね。

クラスナホルカイ、私は初めて知る作家でした。調べてみると、代表作が『サタンタンゴ』『抵抗の憂鬱』(どちらも邦訳はなし)。唯一の邦訳が、京都を舞台にした『北は山、南は湖、西は道、東は川』だそうで、松籟社(しょうらいしゃ)という京都の出版社から2006年に出ています。

興味を持ってamazonにいくと「お取り扱いできません」となっています。それで出版社のホームページに行ってみると、

「弊社は受賞者の小説『北は山、南は湖、西は道、東は川』の日本語版を、早稲田みかさんの翻訳で2006年に刊行しています。出版元として、光栄のおすそ分けをいただいたかたちで、クラスナホルカイさん、早稲田さんに感謝しております。

ただ大変申し訳ないのですが、『北は山、南は湖、西は道、東は川』は長らく絶版で、在庫がございません。また、翻訳権も失効していますので、重版(復刊)も少なくとも短時日では難しいという状況です」

と書いてあるではありませんか! 受賞後は書店からの問い合わせが  殺到したはずですが、なんとも悲しいことです。

同じようなケースが記憶にあります。ウクライナのアレクシェービッチ氏が『戦争は女の顔をしていない』で2015年度ノーベル賞を受賞したときです。

業界内ではロシア文学の出版社として知られている群像社が、この作品を含むアレクシェービッチ氏の作品を複数翻訳出版したのにもかかわらず、受賞が決まったときに出版権を失っていたのです。千載一遇の商機を逃した群像社は以下のようなコメントを残しました。

「アレクシエーヴィチの作品は、今後、あらたに版権を取得した出版社から刊行されることになると思います。小社の本をお届けできなかったみなさまには、ぜひ新しい装いの本でアレクシエーヴィチの作品をお読みいただければ、最初に刊行した出版社としても喜ばしいことです」

この件も、契約の更新を怠っていたのでしょうか? 作家・作品をいち早く日本に紹介した出版社が、ビジネス上の対価を得られないことはとても残念なことです。

私の出版社では国外の著者・出版社とも契約を結んでいますが、契約内容はある程度定型化されており、通常5年の契約期間が過ぎると「双方の合意のもと1年ずつ延長することができる。延長に当たっては●カ月前までに文書で申請する」としていることが多いです。「文書による通知がない限り1年ずつ自動延長」とする場合もあり、要は双方が合意すればどちらも可能です。

この延長申請は、本の刊行から数年以上後ということもあって、きちんとしたシステムを構築していないと気付きづらいのです。HANAでも以前は私が編集長と併行してこのような事務をやっていて、うっかり延長申請を忘れたことが何度かあります。でも定期的な販売報告と印税支払いは怠ったことはないので、何ごともなかったように契約は維持されました。そういうこともあって、契約の際にはなるべく「自動更新」になるように交渉しています。

契約が生きていれば、在庫がなくても増刷することができますが、契約が切れていると手元の在庫を売ることすらできない場合があります(通常契約書で一定期間の後の販売を禁じられる)。新たに契約を取り直すとなると、受賞により著者と作品の「値打ち」が上がってしまっています。原著の出版社や翻訳エージェントは少しで高く買ってくれるところや、多く販売してくれそうなところに出版権を売りたいでしょうから、小出版社のチャンスは少なくなります※。

『戦争は女の顔をしていない』は、結局受賞の翌年に岩波書店から刊行され、私はそれを読みました。それ以降この作家の作品は岩波書店から出続けているようです。また『戦争は女の顔をしていない』はKADOKAWAから漫画にもなって出ています(現在5巻まで刊行)。クラスナホルカイの作品は今後どの出版社から出されるでしょうか。

ハン・ガン氏の作品は、2011年にクオンが『菜食主義者』を出版したのをはじめ、授業前からいくつかの出版社から翻訳出版されていました。クオンは昨今の日本での韓国文学普及において大変大きな役割を担ってきた出版社です。ハン・ガン氏の受賞によって、名誉はもちろん対価も十分に得られたとのことです。

※この文章での「翻訳権」「版権」「出版権」はすべて「日本国内での日本語翻訳版の独占出版権」のことで、通常他の出版社が同じフォーマットで出せないようになっています。