通信472 「ピョンヤンからのメッセージ」田附和久

【週刊ハンガンネット通信】第472号 (2024年1月15日発行)

「ピョンヤンからのメッセージ」
田附和久
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2024年の年頭は、元日に発生した能登半島地震のために、正月のめでたい気分を満喫できなかったという方が多かったのではないでしょうか。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

地震発生後に朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)の金正恩国務委員長から日本の岸田首相宛に見舞いの電報が送られてきたというニュースに触れ、早速、로동신문(労働新聞)のサイトで原文に当たってみました。その中に「나는 피해지역 인민들이 하루빨리 지진피해의 후과를 가시고 안정된 생활을 회복하게 되기를 기원합니다. 」という一文がありました。ここに出てくる「후과」という単語が気になりインターネットで検索してみたところ、よくない結果を表す言葉として「北韓」で使われる単語であると説明する韓国のサイトを多くみつけました。「후과」という単語自体は韓国の辞書にも出てきますが、韓国では共和国におけるほど日常的に使われる頻度は高くないようです。

南北の分断から70年以上の歳月が流れ、今でも互いの言語は通じるものの、日常的に使われる単語や表現の違いが日増しに大きくなっていることは確かです。共和国で暮らすという役柄の人物が登場する『愛の不時着』等のドラマや映画をご覧になって、あらためてそのことに気付かされた方も少なくないのではないでしょうか。

今から四十年近く前、私が初めて朝鮮語を学んだ当時、「남북 공동 성명(南北共同声明)」(1972年7月4日)を教材として取り上げている教科書が何冊かありました。当時としては珍しい南北共同で発表された文書であり(南北統一の実現可能性を期待させてくれる文書でもありました)、同じ文書だけに南北それぞれの正書法や分かち書きの差異を学ぶのに適したテキストでした。私と同じ時期に朝鮮語を学んだ仲間の中には、「最近 平壌과 서울에서 南北関係를 改善하며 갈라진 祖国을 統一하는 問題를 協議하기 為한 会談이 있었다.」で始まる共同声明全文を今でも暗誦できる人が少なくありません。

それから半世紀近くを経た2018年に文在寅大統領と金正恩国務委員長が会談し、両者連名による「板門店宣言」が発表された際、南北双方から発表された宣言文を比較してみたことがあります。「남북 /북남」、「한 /조선」等のそれぞれの置かれた立場に基づく違いの外にも、「(南)정상 (北)수뇌」、「(南)왕래 (北)래왕」、「(南)민족 분단으로 발생된 (北)민족분렬로 산생된」、「(南)이산가족 (北)흩어진 가족」、「(南)전단 (北)삐라」、「(南)장성급 (北)장령급」等の南北間で異なる単語・表現が増え、共同宣言文も共通した一つのものを作れなくなってしまっている現実を悲しい思いで受け止めました(ほかにも、「(南)충돌의 근원이 되는 (北)충돌의 근원으로 되는」のような、文法的に気になる違いもありました)。

日本社会の中で韓国に好い印象を持つ人たちが若い世代を中心にかつてないほど増えている一方で、朝鮮民主主義人民共和国に対するイメージは好転することはなく、メディアでも「ミサイル」発射等をめぐる報道のほかには関心を向けられることがほとんどありません。学習している言語を日常的に使って同時代に生きている人たちの中の半分近くの人たちのことがイメージの中から全く欠落してしまっているという今の日本の韓国語学習者が置かれている現状は、たいへん悲しく、また残念なことだと私は思います。

確かに国交もなく、市民同士がたやすく交流できない状況の中では仕方ないことなのかもしれませんが、しかし今のような状況がこの先も永遠に続くとは思えません。思い起こしてみれば、私が朝鮮語を学び始めた1980年代当時の日本社会の韓国観も、今とは比較にならないほど冷たく、差別や偏見に満ちた厳しいものでした。

ちょうど40年前の1984年にNHKでハングル講座の放送がようやく始まり、『平凡パンチ』という男性週刊誌が韓国特集を組んで大いに話題になりました。大手マスコミでは軍事独裁政権による民主化運動弾圧のニュースのほかには韓国に関して伝えることがほとんどなかった当時、それでも韓国に暮らす普通の人々の生き様や文化を伝えようと努力した先輩たちがいました。それらの方々の働きを通してまかれた種が、時を経てやがて花を開き実を結び、韓流ブームが定着する今の状況へと至りました。韓国ドラマを日常的に楽しむ層が広がり、多くの高校生たちが韓国のアイドルや化粧品に夢中になり、紅白歌合戦には韓国のアーティストが何組も登場するような今日の日本社会の姿を40年前に誰が予想していたでしょうか。

そう考えれば、今から30年、40年先に私たちがピョンヤンに暮らす人々と自由に交流し、互いの文化を楽しむ時代が訪れていることも、全く可能性がないとは言えないでしょう。40年前に日本と韓国の間で交流の種をまいた先輩達にならい、今、かんたんには会えない仲間たちのことを思いながら、今この地でできる種まきの仕事を今年は何か始めたいという思いを新たにしています。

今回は年頭に当たり、個人的な新年の夢と目標を書かせていただきました。2024年が皆様にとって平和で穏やかな実り豊かな年でありますようお祈りいたします。