通信556 「死ぬ日まで天を仰ぎ」田附和久

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【週刊ハンガンネット通信】第556号 (2025年11月3日発行)
「死ぬ日まで天を仰ぎ」田附和久
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私は韓国語の授業でパッチムを教える際、必ず取り上げる単語が三つあります。하늘(空)、바람(風)、별(星)。これらを発音してもらった後で、「皆さんは『空と風と星と詩』という詩集をご存じですか」と問いかけます。そして、何も見ずに、「죽는 날까지 하늘을 우러러..(死ぬ日まで天を仰ぎ…)」と尹東柱の「序詩」を暗誦してみせます。そして、受講生がぽかんと口を開けているのを横目に、この詩の日本語訳と詩人・尹東柱の人生を紹介し、最後にこう語るのが私の授業の「定番」です。
「自転車の乗り方を一生忘れないように、若い頃に覚えた詩は、年齢を重ねても自然に口をついて出てくるものです。皆さんも、心に残る詩や歌詞に出会ったら、ぜひ暗誦してみてください。それは皆さんの韓国語力を伸ばすだけでなく、生きていく上での心の支え、心の糧になるはずです。」

私は、東京・池袋の近くで生まれ、50代後半となった今もその地で暮らしていますが、この10月、故郷・池袋にある立教大学の構内に尹東柱を顕彰する記念碑が設置されました。1942年3月、戦時下の日本に留学した尹東柱は、翌1943年7月に治安維持法容疑で逮捕されるまでの間、東京の立教大学と京都の同志社大学で学びました。これまで京都には同志社大学構内をはじめ複数の場所に記念碑がありましたが、東京には一つもありませんでした。今回初めて東京に設置された記念碑には、彼の肖像写真のほか、東京滞在中に立教大学の便箋に書いた「たやすく書かれた詩」の自筆原稿が刻まれています。
記念碑が設置される以前から、立教大学では毎年、命日である2月16日に近い日曜日の午後、卒業生と大学の尽力により、構内のチャペルで追悼礼拝と記念講演会が行われてきました。コロナ禍で一時中断されましたが、再開された昨年と今年は、チャペルに入りきらないほど多くの参加者が集まりました。韓国で最もよく知られる詩人尹東柱は、日本でも今日、実に多くの人々から愛されています。

日本における尹東柱ファンを増やす大きな契機を作ったのは、詩人の茨木のり子さん(1926 – 2006)です。戦後日本を代表する詩人の一人である茨木さんは、50歳から韓国語を学び始め、自身の翻訳による『韓国現代詩選』を刊行されたほか、韓国語の魅力を綴ったエッセイ集『ハングルへの旅』も上梓しました。その中の一編「尹東柱」が、後に筑摩書房の高校教科書『新編現代文』に収録され、日本の多くの高校生が尹東柱の作品と人生に触れるようになりました。

茨木さんは尹東柱の存在を知って以来、作品の翻訳に取り組んでいましたが、作業を進めていた1984年に伊吹郷さんによる完訳が刊行されたため、気勢が削がれてしまったとエッセイに記しています。しかし、今年9月、岩波書店から刊行された『茨木のり子全詩集・新版』に、これまで未公開だった茨木訳の尹東柱詩7編が収められました。数は多くないものの、「現代詩の長女」と呼ばれた方の翻訳だけあり、既存の訳とはひと味異なる箇所が少なくありません。例を一つ挙げれば、立教大学の記念碑にも刻まれ、「たやすく書かれた詩」と紹介されてきた「쉽게 씌어진 시」を「さらさら書けた詩」と訳しています(「人生は生きがたいというのに/詩がこうも さらさら書けるのは/恥ずかしいことだ」)。本書には金裕鴻先生の「좋습니다(いいですね)」というチェックも入った「自畫像」の自筆原稿写真も掲載されています。茨木さんが本格的に尹東柱詩の翻訳に取り組まなかったことは残念でなりませんが、この7編が残されていた奇跡を、心から喜びたいと思います。
その後、日本での尹東柱への関心が高まる中、伊吹訳以外にも複数の翻訳書が刊行され、現在では、金時鐘さん翻訳による、原文併載の岩波文庫版が、廉価で入手できるようになっています。

私も「序詩」を暗誦し、授業で必ず紹介するほどですから、言うまでもなく尹東柱を愛してやまない一人です。初めて彼の作品と向き合ったのは1989年、交換留学生としてソウルの延世大学に通い始めたときでした。大学構内の「尹東柱詩碑」の横の坂道を通って毎日教室へ通ううちに、詩碑に刻まれた「序詩」を暗誦できるようになりました。その後、他の作品も読むようになりましたが、韓国人の友人がなかなかできず、下宿でよく読めない韓国語の本を眺めてばかりいた当時の私の心に最も響いたのは、東京での留学中に書かれた「たやすく書かれた詩」でした。「六畳部屋は他人の国」という冒頭を「オンドル部屋は他人の国」と置き換えて口ずさんでみたこともあります。
日本に戻り、卒業後には、縁あって彼の生涯を描いた演劇公演の翻訳や広報を手伝ったこともあり、そのたびに彼の作品を読み返す中で、日々の忙しさの中で忘れがちな純真な思いや社会に出たときの初心を思い起こしてきました。
最初の出会いからおよそ40年が経ち、私の年齢は尹東柱の享年(27歳)をはるかに超え、彼の倍以上生きてしまいました。いつしか私も尹東柱と同じキリスト教の信仰を持つようになり、今では若い頃とは異なる視点で彼の詩を読むようになったと感じています。

尹東柱は立教で数か月学んだ後、退学して同志社に転じました。東京では友人もできず、あまりよい思い出はなかったのかもしれません。しかし、東京で書かれた詩が、彼の死後広く読まれるようになり、今では日本の多くの人々に愛されています。東京に設置された記念碑を多くの人が訪れ、彼の詩を愛する人がさらに増えることを願っています。
私は、かつての延世大学の詩碑のように毎日訪れることはできませんが、故郷に生まれたこの記念碑には、できるだけ足を運び、刻まれた「たやすく書かれた詩」を前に、若き日に立てた初心を胸に刻み直したいと思います。そして、彼のように、日々天を仰ぎつつ、すべての死にゆく者、あらゆる命を慈しみながら、この人生を過ごしていきます。